創立90周年記念講演 「海外の現場から日本を見る」
平成23年7月発行の同窓会報「姉水」に掲載しました記念講演の全文を紹介します。

「海外の現場から日本を見る」

毎日新聞外信部副部長 小倉孝保 氏 (虎高35回卒)

今日は、イラクの話を中心にさせてもらおうと思います。本題に入る前に前置きの話をさせてもらうと、ちょうど30年前にこの高校に入って、27年前に卒業したことになります。基本的に高校時代は極めて成績の悪い劣等生でした。これは間違いなく、当時1学年315人位だったけど卒業するときの成績は、250番から260番の間くらいの成績だったと思います。そういう人間でも社会に出たら何とかやっていける。この講演を聴き終わった後に、主に成績の悪い後輩たちが何とか俺でもやっていけるんだなぁと感じてくれたらとてもありがたいと思っています。

昨日この講演の準備のために虎高に来たのですが、卒業して初めて母校に入りました。建物なんかはほとんど変わっていないけれど、夜6時くらいに校舎の中に入ると、職員室前の廊下に机を並べて勉強しているでしょ。あれは、僕らの時には全然なかったです。職員室の前でみんな一生懸命勉強しているので、熱心にやっているんだなぁと感心しました。僕が虎高時代に何していたかというと、野球していたことしか記憶にない。この講演をしてくれという話があったときにも、本当に僕でいいんでしょうか、あの成績の悪かった、ほとんど劣等生だった僕でいいのみたいな感じ。虎高の領家先生から連絡が入り、ちょっと今度講演してほしいということでした。

 領家先生、本当に僕でいいんですか、高校時代の僕のことをよく知っているでしょう。野球しかしてなかったんですから、といったら、先生も野球だけしていたんだからいいでしょ、という話でした。野球だけしかしていない者に話をさせるのはどうかと思ったのだけれど、社会に出てから結構おもしろい仕事にありつけて、おもしろいことをやっているので、今日はその話を聴いてもらいたいと思います。

まずイラクの話です。本題に入る前にとりあえず知っておいて欲しいことがあります。(イラク周辺の地図を指して)ここがイラクで、周りの国はちょっとややこしい国に囲まれていて、これがチグリス川で、下にあるのがユーフラテス川です。バグダッドの中心をチグリス川が流れています。イラクで集中的に取材をしたのは、2000年からです。イラクの戦争が始まったのは2003年です。2000年の秋にイラクに行って、開戦が2003年の秋ですから、その間は戦争前のイラクです。

 戦争前のイラクはどういう状態だったかを説明すると、それがこの写真です。(金曜古書市の写真)ここに古本が並んでいます。80mから100mの道がずっと続いていて、この両側に古本市が出ます。毎週金曜日に本が大量に出て、そこに集まってきてみんな本を読むのです。古本市は庶民の楽しみですが、とくに知識層は本を読みたい層です。実はアラブ世界はイラクからモロッコまで、シリアとかサウジアラビアとかあるのですが、アラブ人の中でもっとも本を読む人はイラク人だといわれています。アラブ人がよく言うのは、エジプト人が書いて、レバノン人が出版して、イラク人が読む、作家はエジプト人が圧倒的に多い、出版社はレバノン人が多く、それを読んでいるのはイラク人です。しかし、イラクで1990年からぴたりと新しい本が出版されなくなりました。それなはなぜかというと、国連の経済制裁が始まったからです。イラクの簡単な歴史の資料(配布プリント)の中に「1990年イラク軍がクウェートに侵攻」というのがあります。199082日にイラクのサダムフセイン軍が突然クウェート領内に入って、すぐ占領してしまった。それに怒った国連がイラクに経済制裁を与えるわけです。これが極めて厳しい経済制裁で、国連により今もかかっている経済制裁がいくつかあって、たとえば北朝鮮に対する制裁とか、イランも制裁を受けているし、アフリカのコンゴ民主共和国もたぶん同様で、国連が制裁をかけている国が10ケ国ほどあって、その中でもイラクの制裁は厳しいもので、イラクの物を外に売れないし、イラクに物を売ってはいけない、という制裁を与えた。ということは、イラク人はイラクでとれる物、イラクで作られる物でしか生活できなくなる。どういうことが起こるかというと、砂漠の国ですから木がないのです。そして紙がなくなってくると、新聞を発行したりトイレで使う紙を作るだけの物以外、本を出したりする紙がなくなってしまう。1990年からピタリと新しい本の出版が止まってしまった。それで、僕が行ったのが2000年ですから、2000年か2001年の頃だと思うけれど、新しい本は勿論出ない。教科書だけはかろうじて新しいのを作っていたみたいですけれど。それで大量にこのような古本屋が集まってきている。古本も大量にありました。1960年に出版した物とか、1970年のとか。それ以外の制裁では、たとえば医薬品ですが、薬も全く入ってこなくなります。ぼくがヨルダンからバグダッドへ入るときは、制裁がかかっているから飛行機も飛べない訳です。ですから900kmの道のりを車で走って、それこそ10時間くらいかけてバグダッドに来るのですが、イラクの友達に連絡してバグダッドに行くんだと連絡をしたら、まず医薬品を頼まれる訳です。こういう薬持ってきてくれだとか、家の父が糖尿病になっているから糖尿病の薬を持ってきてくれとか、本好きの人には本を頼まれるし、外国の英文と雑誌ニューズウィークとかタイムとかそういうのを頼まれました。外の情報が全く入って来なくなって、イラクの人は外の情報にひどく飢えていて、ニューズウィークとかタイムとか買っていってあげると非常に喜ばれました。薬品がないからなかなか手術もできないし、諸説ありますが、1990年に制裁がかかってから、解除されるまでの間に、本当は死ななくても子供、今だったら絶対助かったであろうという子供が10万人くらい死んでいると言われています。

 そして、次に戦争が始まるわけです。この戦争、イラク戦争は20033月開戦なのですけれども、2001年の911日に、皆さんもご存じだと思うけれど、ニューヨークとワシントンで同時多発テロが起こります。4機のハイジャックされた飛行機が、2機はワールドトレードセンターに突っ込む、1機は国防省の敷地に突っ込む、1機はフィラデルフィアの草原に落ちる、この4機のハイジャック事件が起こるわけですけれど、この事件が起きた流れの中でイラク戦争が起こるわけです。ちょうどそのとき僕はアラブの方からものを見ていた訳ですよ。アメリカで起こっている議論が不思議でしょうがなかった。9.11のテロが起こったときに、アラブ人19人がハイジャックして突っ込んだという話で発表される訳です。そして、アラブ人はアルカイダという集団で、その拠点がアフガニスタンにある、それでアフガニスタンを攻撃しますよ、そうブッシュ大統領が言うわけです。そこまではアラブ人は理解できるのですが、その次に、イラクもけしからんという話になるわけです。これはものすごくクエスチョンマークで、今はアルカイダとサダムフセインの関係がなかったのか、9.11との関係を完全に否定されているけれども、当時アメリカは必死に情報をリークしていた。イラクのサダムフセインがアルカイダを使ったのではないかとか、そういう話がポンポンとアメリカのメディアで流れるわけです。でもアラブ人の側から見ている僕からしたら、不思議でしょうがなかった。というのは、当時のサダムフセイン政権というのは非常に世俗的な、むしろ宗教大嫌いな政権なのです。フセイン政権は宗教的な行事をことごとく廃止するし、宗教指導者を捕まえて殺したりしている、片やアルカイダはイスラムの教えの通りの国を作ろうとしている組織だから、フセイン政権とアルカイダが一緒に行動するということはあり得ないと思っていたし、アラブ人もみんなわかっている。9.11とイラクというのは今では関係がないということはわかっているが、当時アメリカはそういう情報をどんどん出してイラク戦争に突っ込んで行くのです。それでイラク人も2002年の秋ぐらいから、隣国クウェートに軍隊を大量に入れて戦争やりますという態勢になっていくんです。アメリカや国連では外向的な話し合いの余地が残っているとしながら、一方では10万人規模の軍隊をイラクに送って臨戦態勢をとっている。

 そのときイラク側から見ていたのですが、アメリカ軍がどんどん来ていると感じるんですけれど、不思議なのは一般のイラク人はどういう感覚だったかというと、ようやく戦争は始まってくれるのかという感じだった。イラク人と話していて奇異な感じだったけれど、アメリカ軍が隣国に来て今まさに攻撃を受けようとしている。戦争をしたらあっと言う間に負けてしまう世界一の軍隊がすぐそばにまで来ている。そのときイラク人はもうちょっとしたら戦争だという待ち遠しい感じだった。その理由は、90年からの制裁にみんなくたくたになっている。ちょっと病気したら薬がない、子供が亡くなるかもしれない、食料も配給だ、一部の政府の指導者以外はほとんど貧乏になっているから、大学の教授がタクシーの運転手をしたり、高級官僚が夜になったら雑貨屋をやったりして食いつないでいた。戦争が始まるかもしれないという時に、一般イラク人が見せた表情というのは、戦争が怖いとか戦争がけしからんとか、そういう話はほとんどなかったと思います。フセイン政権内部の一部を除いて、みんなニコニコ顔であったのではないかと思います。これは不思議な状況だなと思いました。

 アメリカ軍は2003320日にイラクを空爆してクウェートと北のクルド人側から地上部隊がバグダッドを目指すわけです。その後3週間くらい戦闘がありましたけれど、世界最強の軍隊が攻めるわけですから、何の難しさもない、ほとんど抵抗らしい抵抗もなくってバグダッドに侵攻していきます。49日に1979年から続いていたサダムフセイン政権が崩壊して、アメリカを中心とした国際社会がイラクという国を立て直しにかかるのです。そのとき僕はバグダッドを取材するのですが、国がなくなるということはこういうことなのだと体感しました。

 たとえば、第二次世界大戦の日本の敗戦というのは、815日に日本は敗戦を宣言しますけれど、まだ日本の警察官がいるわけです。日本の軍もあちこちに残っているし、92日に講和条約を結んで進駐軍が日本にやってきて占領する。1951年のサンフランシスコ講和条約まで連合国が日本を統治するから、まったく統治者がいなくなったという時間はない。しかし、イラク戦争の場合は、勝った方と負けた方がサインをして、私は勝ちました、私は負けましたという戦争ではないのです。一方が徹底的にやってしまって、統治していた人間がどこかへ行ってしまう。だから空白の状態になって、49日の朝から町中の警察官が姿を消すわけです。そういうとき、どういうことが起こるかというと、何をしてもいい社会、他人の物をとってもそれを罰する法律すらない。それで社会は大混乱するわけです。そのとき、イラク取材のためイラクに入るのですが、僕の持っている現金を盗まれたところで、訴えていく所もないし、それを裁く人間もいない。そういう状態が続くわけです。アメリカ軍は治安にはほとんど無関心で、少しだけ残ったイラク軍が砲撃してくるのに応戦するだけです。

 治安の悪化の後に起こってくることは何かというと、サダムフセイン時代の独裁政権下で生きてきた人が、その当時何があったかということをしゃべり始めるわけです。サダムフセインがどこかへ行ってしまったから、今までまったく口を閉ざしていた人が、その間何が行われてきたか、こんなことが起こっていた、としゃべり始める。あちこちで大量に虐殺されたという墓地の話が出てくる。その墓地へ行きましたが、何重にも死体が積まれて埋められている、それを掘り起こすわけです。家族がいなくなったと言うことはわかっているのです。たぶん亡くなっているだろうということです。

ある時、フセイン政権の秘密警察というか、治安の係が学校に来て、誰々さんちょっと来なさいと言って、学校から連れて行っちゃう。家にいる人は、「あの子夕方になっても帰ってこないなあ、どうしたのかなあ、」と思っている。次の日になっても帰ってこない、お母さんは警察に連れられたんだと、地元の警察に電話する。でも、警察ではそんな子を連れて行ったとは記録に残っていないと言う。それで10年から20年経つわけです。自分の子どもが何故連れて行かれたのかさえも説明が受けられない。何故かというと、ほとんどが宗教に絡んでいる訳です。イスラム教のモスクに行ったとか、そこで熱心なお祈りをしたという情報で、身柄拘束をされてしまう。1980年からイラクの置かれた複雑な国際情勢があるが、当時はイラクとイランが戦争をしている。これは一方のイランというのは、1979年の革命でイスラム国家になるわけです。イスラムの教えで国をまとめていく。その革命の思想が地域に広がることを、イラク、サウジアラビアとかシリアとかは、非常に懸念していた。だから、宗教熱心な奴がいないかどうか、目を光らすわけです。こいつは宗教熱心だとなったら、有無を言わさずどこかへ連れて行ってしまう。それで殺されていた人間の遺体が大量に出てくるわけです。もちろん骨になっているから、自分の息子を必死で探すが、どれが自分の息子の骨か分からない。でも残されていたズボンから鍵が出てきて、その鍵を持って帰ってみたら自分の家の鍵だった。ああ私の息子だというような話がどんどん出てきます。

 (写真をさして)この人も宗教熱心な人だったんです。イスラム教のシーア派の信者で、隣のイランで革命が起きた時に、その革命の指導者ホメイニを尊敬して「ホメイニが作るような国がイラクにもできたらいいな」と考えていた人なんです。バグダット大学を出た秀才ですが、徴兵で軍隊に行って、戦争してますから大量に男が徴兵されるわけです、ジャバドカードム・メシデさんというんですが、ある時この人が、とても宗教熱心だと言うことが分かったんです。それで、この人は、「自宅にホメイニの写真を飾っていることがばれたんじゃないか、ひょっとして連行されて逮捕されるんじゃないか。殺されるんじゃないか。」と考えるんです。それでどうしたかというと、ある時軍を抜けだして、1981年自分の田舎の実家にかえって、小さな小屋に穴蔵を作って、そこに閉じこもるんです。この写真がその穴蔵です。僕も見ました。幅が75cm、高さが2m、奥行きが3m。それだけの穴蔵を作ったんです。農機具小屋の片隅を改造して、外からは全く分からないような形になっていました。この人1981年にこの穴蔵に入って、出てきたのは2003年の410日です。22年間その穴蔵に入り続けていたんです。この22年間、もちろん一回も外に出ない。外に出たら殺されると思っているから、外の世界よりも、その75cm×3m×2mの空間が自分の生きる空間だと思うわけです。この人に、もちろん穴から出てきた後話を聞いて、どんな生活をしていたんですか、ときいたら、この人が穴蔵に入っているというのを知っているのは二人だけで、お母さんとお兄さんだけ。お兄さんのお嫁さんがいるが、その人すら知らなかった。この人が穴から出てきてはじめて、「あら弟が何故こんな所にいるの」、それぐらい誰にも知られないようにしてそこに入り続けていた。お母さんが一日に二回だけ、ご飯をわかりにくくなっている入り口に運んで、それを彼がとって食べる。トイレは自分で改造して、外に流すようにしていた。22年間何をしていたかというと、ラジオを耳に当ててずっとBBCのアラビア語放送を聞いている。ニュースをずっと聞いている。外の気色は5ミリぐらいの穴が開いていて、外から見たら全然分からないようなもの。そこから一日何回も外を見て、道行く人の表情を見ながら、苦しいのかな、どうなのかなと、社会はどうなっているのかと考える。後は読書。本を差し入れることもできないから、置いている本はコーランだけ。日がな一日コーランを読む。そして200349日にフセイン政権が崩壊してイラクから独裁政権がなくなる。その時この人は、ああ生きられるんだと思って、外に出てくるんです。22年ぶりに。そして中にいた時のことを、メディアにいろいろ話すんです。だから、僕はその話を聞きつけて、バクダットから車で田舎道を通ってようやくこの人の所にたどり着いて、話を聞いた。多くのメディアが来るから、サイン帳などを作っていた。日本からは珍しいなどと言っていた。サイン帳にはBBCの記者だれだれとか、CNNの誰とか、世界中のメディアがこの人の所に来ていた。この間、チリの事故がありました。あれでも数ヶ月。22年間のこの話と、数ヶ月のチリの落盤事故。決定的に違うのは、この人は自分から入ったということ。チリの事故は、出たいのに出られないということ。ここが精神的に全く違うと思う。この人に、「22年もいて、精神的に大丈夫でしたか」ときいた時、「22年間風邪もひかなかった。すごく緊張していて風邪もひかない」「運動もできないでしょう」といったら、棒をかけておいて毎日懸垂をしていたらしい。そこそこ運動もしていたという。外の世界は、イラク中が厳しい状況に置かれていたから、特にこういう宗教熱心な人に対しては、ここだけが穴蔵だけが、唯一の安らげる場所だったという。安らげる場所なら、少々狭くても、穴倉でも、日を一つ浴びなくても、人間生活していけるものだと、僕は思いました。また、この人と話をしていて思ったのは、この人は国際情勢に詳しい。EUが一つになってるからとか、9.11の時、アメリカはイラク攻撃してくると思っていたよとか、結構詳しいんです。この人は22年間も外と全く遮断されているのに、ものすごくいろいろなことを知っていると思った。ずっとBBCのラジオを聞き続けている。かつ、必死で外の人の表情とかを見ようとしているわけです。だから、人間というのは、大量に情報の溢れるところにいてもそれを積極的に取りに行くというか、それが自分の命にかかわると思って取りに行っている人間と、ニュースを見ていてもぼうっと見ている人間と、それこそ先生がいい授業をしていても、ぼーっと見てる、この緊張感の違いが大きいと思う。結局主体的に、どれだけその情報にかかわれるのかというのが、ものすごく大きいんだと思いました。この人の場合は、非常に限られた情報源をいかにして利用するか、と思っているからどんどん自分の中に入れていけた。

 それで、厳しい状況の人が解放されたりして、イラクの国民に徐々に普通の生活が戻る一方で、先ほど言いましたように、治安が極端に悪化する。(写真を指して)この奥にバクダッドホテルがあって、ここがCIAの拠点になっていて、ここが爆破されたときに、僕はすぐ近くにいたんで、写真を撮ったらアメリカ兵がここからは絶対に中へ入ったらいけないと、かなり厳しいことを言っていました。煙がもうもうと上がるようなテロがどんどん続発しています。(写真で)これも爆発現場です。2003年の8月頃からあちこちで爆発事件が起こってくる。ホテルで寝ていても、バン、バンとしょっちゅう爆発物の音がして、大きい爆発はドンという音がして、1キロぐらい離れているのに、ホテルの窓ガラスがカタカタと揺れるんです。本当に怖いです。だから2005年に帰ってきて、僕は鎌倉で妻と娘と花火を見に行きましたが、花火の火薬の音が怖くてしようがなかった。ドーンと花火が上がって、妻や娘がきれいだねと言っても、僕はウッとなるわけです。これは当時イラクにいた人と話をするとみんなそういっているんです。俺も花火が怖くてしようがなかったよって。外国から来たごく一部の爆破を経験している人間が言うんだから、イラク人にとってはもう本当に神経が麻痺するぐらいの状況になっていたと思います。

治安が悪くなるなかで、僕自身が襲われる経験があったんです。(写真を指して)これが、イラクのサダムフセインの息子のウダイが殺された現場です。20037月の初めだった。北の方で殺された。すごい戦闘が行われて、アメリカが大型のヘリコブターで、彼が隠れていた家を爆撃して、ぼろぼろの遺体が出てくるような状況でした。その取材をした後、一旦イラクの外に出て休んでくれと、会社に言われた。3週間から1ヶ月取材していて、もう精神的にも相当疲れていて、ああようやく終わったと思って、ようやく出られると、朝早くに出れば割と治安は大丈夫だという話を聞いていたので、バクダットから隣の国のヨルダンまで車で行こうとしたんです。当時は、バクダッドからヨルダン、ヨルダンからバクダッドに車で行く場合は、危ないから車列を組んでいくんです。毎日誰かがイラクには行って、誰かが出てくるから、ヨルダンの大使館前にその日にヨルダンに出ようとする人が、朝5時ぐらいに集まって、車30台ぐらいのグループが出来て、じゃ出発しようとなる。そうじゃないと、1台だけで行くと、襲われて殺されても、その時の様子も誰も見ないことになるし、殺されたことの連絡も入らないということになる。だから、みんなで行こうとなっていた。その日バクダッドからヨルダンに出るつもりで、ヨルダンの大使館前に集まって、現地人のドライバーと僕と2人、何台かで西に向かって走っていたんです。僕の車は、30台ぐらいいる中で、前から3番目か4番目くらい。西部のファルージャという所をかすめる時に、砂漠の向こうから日が昇ってきて、すごくきれいだった。疲れた取材から帰るところだったから、これで帰れると思って、きれいな砂漠に登る朝日を見ていた。すると、前を行っていたアメリカのジャーナリストの車がまず狙われた。アメリカの車が行こうとしたら、こっちに走っていたローカルな車が何か変な動きをしているなと、後ろから見ていた僕が思っていると、急にカラシニコフ銃が3丁、窓から出てきて連続して火を噴いた。パンパンパンパンと。薄明かりできれいだなと思っていたところに、赤い火がバンバン飛ぶ。それはタイヤを狙ってやっている。タイヤを狙って、止まったところを襲って、金を盗むのか、命をねらう。でも、ドライバーも慣れているから、カラシニコフ銃が出てきてバンと撃ち出した時に、ブーンとアクセルを踏んで完全に走りきった。ローカルな車はいい車じゃないから、追いつけなかった。僕の車が、50m100m後ろにいて、僕は参ったなあと思っている。犯人は、アメリカの車が走り去った後、自分の車を僕の車の前に横向きにした。僕の車は逃げ場を失って、犯人の車から30mぐらい後で、ドライバーが車を止めた。そうしたら、体中で目だけ出した男3人が、銃を真横に構えながらこっちに走ってくる。僕の方に。僕は、俺の人生もここまでか、と思って。今だからこうやって喋れるが、そんな感覚は全くなくなる。僕はこの銃で殺されると思ったときは、普段僕は「命なんていざとなったら」、と言っている方だけど、そんな偉そうなことなんて言っていられない。頼むから助けて、何でもするから助けてと言う感じ。それで、3人が取り囲んで、ドライバーを車から引きずり出して、ドライバーが金を盗られている。3人のなかで一番若いやつが僕の所に来て、出ろと言う。こっちもどうしていいか分からない。出て気分害されて、撃たれたらそれで終わり。警察もいない。僕が殺されてもこいつは何の罪にも問われない。これは間違いない。僕はその辺を歩いている羊と同じ状況だった。それぐらいの命の軽さなんです。銃を突きつけ、ドアを開けて、出てこいと言う。僕の心臓の所に、カラシニコフを突きつける。でも、若いんでしょう、指が震えているんです、向こうが。こっちとしては、間違って殺さないでくれ。お金だったら幾らでもやるから、命だけは勘弁してという感じ。そのとき、僕は大量にお金を持っていた。ポケットには67万入っていた。腹巻きの所に、100万から120万は入れていた。この腹巻きが見つかったらどうしようかと思った。120万ぐらいあると。そんなこと言っていられない、120万もやらなければしようがないとは思う。でも、盗られたら痛いなあとも思う。それで、犯人はポケットから金を抜いていく。そして、パスポートも持って行かれて、向こうも慌てているから、パソコンの鞄も持っていかれるが、腹巻きだけは気付かなかった。腹巻きに金を入れるのは日本人の習慣なのでしょうか。まあ、彼らは去っていく。その時、僕は頼むからパスポートだけは返してという気になった。パスポートがなかったら、ヨルダンに出られない。そうすると、またイラクに帰らなければならない。この疲れ切った精神状態で。襲われて、何故またイラクに帰らなければならないのかと。当時、日本の大使館も機能していないから、パスポートを発行するとなると、相当時間がかかる。でもそれだけは勘弁してほしい。そう思った。だから「パスポート、プリーズ」と叫んだ。そしたら、その3人の中の親分のような奴が、パスポートをぽんと投げてよこしたんです。それで、僕は助かった。ドライバーと2人で車に入って、ホッとして「あああ」。そういうときは、言葉にならない。あとから車のボンネットを見るとボコッと一発穴が開いていた。相当危ない状況だった。そうして、なんとかヨルダンに出た。

 僕の車の後に、日本ボランティアセンターという所の人がいた。その日本人が僕らの状況を目撃していたから、僕がヨルダンに出たときには、日本の僕の会社などが大騒ぎになっていた。日本ボランティアセンターの人が、小倉が途中でホールドアップに会って、銃を突きつけられていたのを見た。そういう情報だけが廻っていた。僕は、会社と長浜に住んでいるお袋と当時カイロにいた妻に、襲われたことを電話した。その反応がそれぞれ違って面白かった。会社は、連絡すると、ああよかったなあ、という反応だった。もしも僕になんかあったら、会社としては責任問題になってしまう。イラクの取材は、毎日新聞としてはもうやらない、みたいな。そんな所に誰が行けと命令したかという話になる。僕の当時の上司だった外信部長は、「ああよかった、小倉君本当によかったよ、これでイラクの取材が続けられるね、またちょっと休んで、イラク行ってよ」。お袋に電話したら、誰が君たちのことを心配しているのか、これは間違いなく、お袋。長浜に電話したら、受話器の向こうで親がヘロヘロになっているのが分かる。「もうイラクなんか行かんといて。」で、そのあと、かみさんに電話して、もうイラクなんか行かんといてといわれたらどうしようと思っていたら、「あんたパスポート大丈夫?」と言うんです。何故かというと、僕が帰った2日後に、僕たち家族旅行でスペインに行くことになっていたんです。パリのホテルなども予約しているんです。かみさんが先ず言ったのが、「あんたパスポートとられなかったでしょうね。」「いや、パスポート大丈夫や。」かみさんは、ふうとか言っているんです。「あんたがパスポート盗られて、パリに行けなくなっても、私と娘だけでも行くよ」、とか言っている。まあ、かみさんってそんなものだと思いましたね。

 イラクでは、だんだん反米感情が高まって、ファルージャというところで、アメリカ出て行けという話になる。その時に取材に行って、この戦争は長引くな、アメリカはうまくいかないな、と思った。何故かというと、アメリカはイスラムのことを全く理解していない、アラブ世界のことを全く理解していなかったと実感する事件があったからです。アメリカ軍は、ファルージャという素朴な田舎の町に行って、そこの小学校にキャンプを作り基地を作る。それにファルージャの住民は怒り狂うんです。出て行け、学校から出て行けと。その時も住民10人ぐらい殺されているんですが、僕もそこへ行って、何を怒っているか、子どもが学ぶ学校に軍が入ったら困るから出て行ってくれと言うことだと思っていた。話を聞いていると、どうもそうではないらしい。もちろんそういう面もあるが、先ずみんなが怒っているのは、あいつらは俺のかみさんが洗濯物を干しているのを眺めていたということ。軍だから、校舎の3階建ての屋上から双眼鏡で見るわけです。変なことが起きないように見ているが、地元の奥さん達が洗濯物を干しに出るのも見るわけです。その時奥さん達はキャーって言って、見られたと隠れて家の中へ入ってしまう。イスラムでは、男性が女性の姿をじっと見るのは非常に失礼なこと。それを許しておく亭主は何事よりも恥ずかしいこと。たとえば僕がアラブ人の家に呼ばれても、奥さんは絶対に出てこない。僕たちの宴会の所には。裏で料理は作るけれど、それを運ぶのは息子であったり、主人だったり。それぐらい自分の妻を他人の男に見られるのは恥ずかしいことだ。そのことを米軍は何も知らないから、ずっと双眼鏡で眺めていた。家のかみさんを覗いている。それが、あのアメリカ人が持っている双眼鏡は、赤外線で透視する装置に違いない。家の奥さんは全身黒いイスラムの服を着ているが、あいつらは高性能の双眼鏡で裸を見ていたに違いないという話が広まるわけです。僕はそこまで高性能の物は持っていないという話をするが、いやアメリカは何でも持っているからとみんなは言う。(写真を見て)それがこの反対運動です。右手に住民がいて、左手に米軍がいて。米軍がいなくなった後の教室に行くと、校長先生が掃除していて、小学校2年生の女の子の机に彫刻刀で、ファキイングイラキイチュセチュイラキと書いてある。これは要するに、このイラク人め、糞喰らえイラク人。こう米軍が彫っている。米軍としても、何故自分たちがこれだけ拒否されるのかが分からない。イライラしている。石投げられたりしているから。それで、そういうのを描く。校長先生は、これは小学校の2年生の机なんですよ、それに糞喰らえイラク人と描く人間なんですよ。そういっていたから、僕はこの戦争はもうあかんなと思いました。アメリカ人は全くイスラム教徒のことを理解していないなあ、と。それで、こういう少年兵が出てきて、イラクからアメリカ兵は出て行けという話が進んでいくわけです。どんどん泥沼化していく。

 そして遂にイラクの子供達だけを狙うようなテロが起こる。2人の子どもを亡くしたお父さんの所に取材に行った。明日学校が始まるから、新しい靴と新しい制服を買おうね、と話していた矢先に、テロで娘さん2人を亡くしてしまった。(写真)これがテロ現場に落ちていたサンダル。体は粉々になっているから、亡くなった人のサンダルが置いていたりする。それを現場に飾っている写真。

 アメリカ人はとんでもないことになっている。今度は、アメリカ側でこのイラク戦争にかかわった人たちの取材をしたいと思った。それで、特派員でニューヨークに行って、アメリカ側で、アメリカが、この優しい人が一杯いて、人を助けることを生き甲斐にしている人が多くいるアメリカで、なぜこんな事が起こるのか、取材した。いくつか取材して、そのうちの一人がこの人で、ジョシュワキーというアメリカ兵で、イラクに行っていた人です。この人は本も書いています。真実の告発の様な本。この人はイラクに行っているときに、仲間のアメリカ人が銃で殺していた現場を見た。子どもの子が殺される。米軍が殺したイラク人の頭部でサッカーしている。そういう現場を目撃するから、休みをもらってイラクから出て、もうイラクに行きたくないという思いで、軍から逃げたんです。アメリカという国は、軍に入るのは自由だが、一旦入るとそこから逃げるとかなり重い罪になる。この人はどうしたかというと、カナダに逃げるわけです。カナダに逃げて、アメリカ軍がイラクで何をしているかを告発するんです。そういうアメリカ人が、今カナダに500人位います。でも、この人はアメリカに帰れない。アメリカに帰ったら、刑務所には行って何年間か働かなければならない。この人達、カナダに逃げているアメリカ人と話していると、不思議なのはこの人達の親戚や親が、何ということをしてくれたんだ、何でお前はイラクに行って死なないんだ、弱虫、卑怯者って攻撃していること。日本人の感覚で言うと、人を殺す戦争の現場から逃げてきてもう行きたくないというと、親や親戚は必死で彼をかばうような気がする。アメリカ人のマインドは、勇気のない奴、戦うことを避けた奴には徹底してきつい。ぼくは、それがアメリカ人にはあると思った。でもアメリカの社会で、イラク政策がうまくいかずに、どういう感情が出てきたかというと、それを象徴する場面がオバマ大統領の勝利です。これはシカゴで、オバマが選挙に勝ったときの写真です。何としてでもアメリカを変えてほしい、こんなアメリカはおかしい、アメリカ人の中でもそういう気持ちが出てきて、黒人の大統領を誕生させた。

 それともう一つ、イラク人の友達でヤシンさんという非常なイラク人の秀才。医者の免許と英語のマスターディグリーを持っている人。この人が、フルブライト留学でウエストバージニア州立大学に留学した。知り合いだから会いに行った。ヤシンと一緒に大学の授業に出たり、ヤシンのアメリカ観を聞いて、ああイラクとアメリカの戦争というのはこういうことだと、すとんと落ちたような気がした。それが何かというと、ヤシンが言うには、アメリカ人はイラクのことをほとんど知らない、僕が出会ったアメリカ人でイランとイラクを区別できた人はほとんどいない、ほとんど関心がない、僕がイラクから来ましたというと、アメリカ人は、サダムフセイン時代は大変だったでしょう、今はよくなったみたいね、と言う。今の方が大変なのにと、ヤシンは思うわけです。一方で、ヤシン自身がイラク人はアメリカのことを知らないんだと分かるわけです。イラクにいるアメリカ人はいつも銃を突きつけてこわい顔をしている、兵隊だから。ヤシンもイラクにいるときは、アメリカ人のことを口汚く罵っていた男なんです。それがウエストバージニアで話をしたら、小倉、アメリカ人って優しいなあなどと言うんです。俺のかみさんは英語全く喋れないから、喋れないんですという話を近所でしていたら、キリスト教系の人が来て、じゃ週に2回、無料で英語を教えましょうと言うことになった。車で迎えに来て、連れて行ってくれて、英語を教える、その奥さんが妊娠して車に乗るのが無理になったら、じゃ家でやりましょうと、家まで来て家で英語の授業をしてくれる。なんてアメリカ人って優しいんだ、と気付くわけです。ある時ヤシンが、小学校3年の娘さんにアメリカの社会科の授業ってどんなことをしているのって聞く。娘の本を読む。その時彼が驚くのは、三権分立のことが書いている。司法立法行政がそれぞれチェックアンドバランスで、お互いをチェックしながら権力を監視している。このシステムにヤシンがびっくりするわけです。イラク人は全くそんな概念を教えてもらったことがない。大統領の力をチェックすると言うことは失礼で、そんなことはあり得なかった。大統領が決めたことはすべて正しい。そう思いこまされてきた。それを小学校3年生の娘の教科書で知って、医者の免許と英語のマスターディグリーを持っているヤシンが驚く。ヤシンは言っていた。小学校3年の娘の教科書を片っ端から読んでいる。いろんな事が発見だったと。で、何が言いたいかというと、アメリカ人が民主主義だ何だと言っても、イラク人は全くそれを理解していないということなんです。どういうものかは体験したこともないから、相当の秀才でも理解していなかった。アメリカ人がイラク人に、民主主義を広げるんだ、あなたたちは自分たちで、政治的な意志を発揮しなさいと言っても、我々イラク人は全く理解していなかった。僕は、ヤシンを通じて、ああイラク戦争って言うのは、アメリカとイラクが理解し合えなかった戦争なんだと、すごく思いました。

 皆さんにも世界の現状を見てほしいが、日本とは全く違うものがあるし、日本の常識が通じないことがいっぱいあって、結局はお互いが努力して相手のことを理解し合おうとしないと難しい。中国なり、ロシアとの関係が難しくなっているが、何でロシアがあんな事をするの、中国があんな風にするの、というふうに、できるだけ理解し合おうとしない限り、僕たちも相手のことを相当間違って理解しているんだと言うことを頭に入れていてほしい。チャンスがあったら、世界を意識して働いてほしいし、世界で活躍してほしいと思う。俺は日本の価値に合わないなあ、僕自身もそうだったから、虎姫高校で優秀な奴が一杯いて、勉強させたら僕よりできる奴がわんさといる。それと同じような価値だけで僕は勝負をしたら、315人中260番な訳です。でも、僕はどこかで思っていた。それだけじゃないんじゃないか。それとは違う社会というのがあるんじゃないか。僕の場合は書くことだった。本が好きで、当時から村上春樹さんとか司馬遼太郎さんとか沢木耕太郎さんの本を読んで、すごく刺激を受けていた。学校の授業では、全然分からないなあって、何とか積分とか、何とか関数とか、まいったなあ。劣等生だなあと思う反面、読書して勇気をもらうわけです。そういう世界ではない世界もある。世界に出たら僕のことを分かってくれる、僕が活躍できる場があるかもしれないな、と思っていた。もちろん虎姫高校で優秀な成績を取っている人間は、それに能力があるんだからそれに向かっていけばいいが、もしもこの世界ではなかなか光っていられないなと思う人間も全くそれは問題ではない。外に出たり、違う人に出会うことによって自分の能力を生かせる場というのが必ずあるので、それが僕の場合ジャーナリストになろうとした理由でもあるし、皆さんもできるだけ大きな志を持って、あんまり縮こまらないで、俺の能力はこれぐらいだなどと自分を規制しないで、あなたたち能力は無限大に広がっているから、そういう気持ちで世界の人とつきあっていってほしいと思います。